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受賞作品:『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』
著者: 奈倉 有里 (なぐら ゆり) さん
二〇〇三年に向かう冬、二〇歳の誕生日を前にした女性が成田から極寒のロシアに飛び発った。途中、コペンハーゲンでのトランジットで航空便のトラブルに巻き込まれ、途方に暮れて泣いていた。が、声をかけてくれた年長のロシア人バイオリニストに助けられ、ヘルシンキ経由で、ペテルブルクに到着。それは、待ち受けている多難を、みな幸運に変えて乗り切ってゆく彼女の前途を予告するかのような旅だった。
彼女の幼少期、ロシア文学熱は去っていた。なぜ、ロシア文学を、と尋ねても、トルストイの読書とロシア語への熱い思いしか答えは見いだせない。が、その真直ぐな情熱が、よい友人たちや良心的な教授の慈しみを招き寄せ、名門・国立ゴーリキー文学大学を卒業。一方ならぬ努力も楽しく語られながら、一九世紀に豊かな実りを生んだロシア文学が革命とその後の圧政、戦後のスターリン批判、ソ連の崩壊等、幾多の屈折を重ねた多彩な陰影を鮮やかに刻み出す。プーチン政権とウクライナとの関係に至るまで。
「文学を探しにロシアに行く」という副題が示すように、ロシア文学に熱中した作者自身によるロシア留学の体験記。30章からなるそれぞれの章に個性的なロシアの学生や教授たちが登場するのだが、単なる交友記であることを超えて、一人一人の人間が文学的な造形を受けてじつに魅力的に躍動して描かれる。ほんの少し読み進むだけでこの本の主題に強い力で引き込まれる。すなわち、人が、青年期に、文学(あるいは芸術、学問)に強くひかれ、いつかそれが、取り替えのきかない生の絶対的な理由となるということの意味である。文学作品ではよく見られる主題ともいえるが、このノンフィクションは、たいていの文学以上に、この主題を、読者の心に、しみるような仕方で深い陰影をもって伝えてくる。一遍の留学体験記だったはずなのだが、いつか読者は、まがいなく、優れた「文学」の世界に引き入れられていることに気づいて驚くに違いない。
紫式部文学賞受賞のお知らせをいただき、まだ信じられない気持ちでいます。ロシアにいたころ、源氏物語をロシア語に翻訳されたタチヤーナ・ソコロワ=デリューシナ先生の勉強会に何度かお邪魔したことがありました。源氏物語を知り尽くした、知識と愛情のかたまりのような先生のお話を聞いていると、文学が時代も言語も超えるものであるということが体感として伝わってくるのでした。
私の随筆は、デリューシナ先生とは逆にロシア文学に魅せられた人間が横浜からロシアへ渡り、文学大学というところで学んだ当時の回想です。トルストイが好きで、雪が好きで、ロシアに行って詩が大好きになりました。同時に、文学は社会の閉塞感や恐ろしい戦火の予感を察知し描きとる可能性を持つものであることも学んできました。そしていま、その恐怖を乗り越えていくのもまた、言葉の役割なのだということを痛感しています。
これからも、遠くのものを親しく感じられる言葉を探し続けたいと思います。
1982年東京都生まれ。ロシア文学翻訳、ロシア詩研究。ロシア国立ゴーリキー文学大学卒業、東京大学大学院博士課程満期退学。博士(文学)。著書に『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』(未知谷)、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(以上新潮社)、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』『赤い十字』(以上集英社)、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち』(岩波書店)など。
開催回 | 受賞作品 | 発行者 | 受賞者 |
---|---|---|---|
第1回 | 『式子内親王伝 -面影びとは法然-』 |
朝日新聞社 | 石丸 晶子 |
第2回 | 『きらきらひかる』 | 新潮社 | 江國 香織 |
第3回 | 『十六夜橋』 | 径書房 | 石牟礼 道子 |
第4回 | 『淀川にちかい町から』 | 講談社 | 岩阪 恵子 |
第5回 | 『アムリタ』 | ベネッセコーポレーション | 吉本 ばなな |
第6回 | 『夫の始末』 | 講談社 | 田中 澄江 |
第7回 | 『蟹女』 | 文藝春秋 | 村田 喜代子 |
第8回 | 『齋藤史全歌集』 | 大和書房 | 齋藤 史 |
第9回 | 『神様』 | 中央公論新社 | 川上 弘美 |
第10回 | 『薬子の京』 | 講談社 | 三枝 和子 |
第11回 | 『釋迢空ノート』 | 岩波書店 | 富岡 多惠子 |
第12回 | 『歩く』 | 青磁社 | 河野 裕子 |
第13回 | 『浦安うた日記』 | 作品社 | 大庭 みな子 |
第14回 | 『愛する源氏物語』 | 文藝春秋 | 俵 万智 |
第15回 | 『ナラ・レポート』 | 文藝春秋 | 津島 佑子 |
第16回 | 『沼地のある森を抜けて』 | 新潮社 | 梨木 香歩 |
第17回 | 『歌説話の世界』 | 講談社 | 馬場 あき子 |
第18回 | 『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』 | 講談社 | 伊藤 比呂美 |
第19回 | 『女神記』 | 角川書店 | 桐野 夏生 |
第20回 | 『ヘヴン』 | 講談社 | 川上 未映子 |
第21回 | 『尼僧とキューピッドの弓』 | 講談社 | 多和田 葉子 |
第22回 | 『評伝 野上彌生子 -迷路を抜けて森へ』 |
新潮社 | 岩橋 邦枝 |
第23回 | 『東京プリズン』 | 河出書房新社 | 赤坂 真理 |
第24回 | 『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』 |
平凡社 | 森まゆみ |
第25回 | 『晩鐘』 | 文藝春秋 | 佐藤 愛子 |
第26回 | 『戯れ言の自由』 | 思潮社 | 平田 俊子 |
第27回 | 『浮遊霊ブラジル』 | 文藝春秋 | 津村 記久子 |
第28回 | 『えぴすとれー』 | 本阿弥書店 | 水原 紫苑 |
第29回 | 『パンと野いちご 戦火のセルビア、食物の記憶 | 勁草書房 | 山崎 佳代子 |
第30回 | 『夢見る帝国図書館』 | 文藝春秋 | 中島 京子 |
第31回 | 『組曲 わすれこうじ』 | 新潮社 | 黒田 夏子 |
第32回 | 『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』 | イースト・プレス | 奈倉 有里 |