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受賞作品:『風配図 WIND ROSE』
著者: 皆川 博子 (みながわ ひろこ) さん
時は一二世紀半ば、所はバルト海に浮かぶゴットランド島のヴィスビュー。いまは中世の城壁都市の面影を残すスウェーデンの美しい町として知られるが、当時は、ノルマン人(ヴァイキング)の地にキリスト教が勢力を伸ばしはじめて間もない、いわば中世への入口である。
海辺の牧羊など農場主の娘・アグネが一二歳のとき、兄嫁に三つ歳上のヘルガを迎えた婚礼の祝宴の夜に幕を開ける。アグネは難破した船から流れついた瀕死の重傷を負った若い男を看病したり、決闘を挑まれた、その男の代理を買って出たヘルガがなんと相手を倒したりと、事件に次ぐ事件の連続が戯曲の様式を挟みながら運ぶ。その間には、最近の研究成果にもとづき、われわれの想像もつかない異郷の生活習慣が丁寧に書き込まれている。
ドイツ商人団が進出してきて、ヴィスビューはロシアの都市、ノヴゴロドとの交易の中継地になってゆく。のちの商人ギルドの連合、「ハンザ同盟」の芽生えである。虐げられる一方だった女たちのなかから自ら航海に乗り出す実業家タイプも出現する。アグネも通訳の役を果たすようになってゆく。ヘルガの助けを借りながら、白樺の皮に双方の言葉に橋をかける単語帖を刻みはじめる。ヨーロッパにおける翻訳辞典の密やかな誕生――。
発展しはじめたノヴゴロドでは、公国の長と都市の貴族とが紛争、その裏で謎の暗殺劇も起こる。大きな歴史の転換期のドラマと、白樺林の向こうに光る青い海を眺めて育った一人の少女が二〇歳になるまでの物語が交差する、眩めくような歴史小説の達成を寿ぎたい。
『風配図』は、壮大な歴史小説であり、女たちの友情物語でもある。舞台は、十二世紀のバルト海沿岸地域と、バルト海の中心に位置する島ゴットランド。ハンザ同盟の基礎をつくってゆくリューベックの商人たち、ノヴゴロドの要人と商人たち、そしてゴットランドの少女二人と彼女たちの家族がおりなす物語は、散文部分と戯曲部分によって交互に語られてゆく。歴史を下敷きとした史実的部分の中に、作者のつくりあげた人物たちが活き活きと息づいているさまは見事であり、また、散文と戯曲を要所要所で描きわけたことによる、物語の緩急のつけかたによって、ダイナミックでありかつ繊細な小説構築がなされたのもすばらしかった。歴史小説は、史実を丹念に調べることが必要だが、事実を噛み砕けずに小説が硬直してはならない。その点、本作は事実に忠実であることと、想像の翼を広げることとのバランスが、素晴らしかった。この作者にしか書けないことが、本作には満ちている。
紫式部の名を冠した賞をいただき、たいそう光栄に存じます。十二世紀のバルト海交易、決闘裁判など、二十一世紀の日本の読者におよそ馴染みのないことを書きましたこの作に目をとめていただけたことが、まことに嬉しゅうございます。私が生まれた昭和初期は、男尊女卑が当然とされていました。敗戦のとき、私は十五歳でした。突然、戦勝国から民主主義、男女同権を強制されたのですが、その本質を理解している大人は周囲にほとんどおらず、男性優位は続きました。家長が絶対権力を持つ中で、自力で生きていこうとする十二世紀の少女たちに、時代を超えて、共感していただけたのでしょうか。
バルト海の交易史研究や法文化史研究を専門とされる先生方から多大な学恩を賜わりました。老齢で取材旅行のできない作者に代わり、担当編集の方は現地を訪れ資料や写真を調えてくださいました。受賞の喜びを、協力してくださった多くの方々と分かち合いたいと思います。
1930年生まれ。72年『海と十字架』でデビュー。73年「アルカディアの夏」で小説現代新人賞を受賞後、ミステリ、幻想小説、時代小説、歴史小説等、幅広いジャンルで創作を続ける。85年『壁──旅芝居殺人事件』で日本推理作家協会賞、86年『恋紅』で直木賞、90年『薔薇忌』で柴田錬三郎賞、98年『死の泉』で吉川英治文学賞、2012年『開かせていただき光栄です』で本格ミステリ大賞、同年日本ミステリー文学大賞、22年『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』で毎日芸術賞を受賞。15年文化功労者。