

入隊から終戦まで
国際運輸株式会社に就職し、昭和
16
年
3
月に満州へ行き、昭和
18
年
2
月に兵隊
検査を受けました。そして第
11
国境守備
隊に、
3
月
20
日に二等兵として入隊し、
3
月
22
日に一等兵になりました。それか
ら昭和
20
年の
4
月まで部隊にいました。
その後、満州のハルビン市というとこ
ろにいる時に戦争が終わり、
8
月
20
日に
捕虜になったわけです。
捕虜になって
捕虜になり、
11
月
8
日まで、満州の牡
丹江省の梅林という場所にシベリアに行
く者ばかり集められました。気候は寒
く、テント生活をさせられて ました。
8
日からは、貨車の車両
1
つ
に
30
人か
ら
40
人くらい乗り 夜通し走っていまし
た。何日ぐらいか…今度はその貨車の中
で生活を
一番初めの
のビラカンとい
寝泊りするための
(強制収容所) という
屋は出入口が
1
つしかありません。部屋
の周りから
1
・
5
メートル程先には鉄条
網が張られており、全てに電気が
います。そういう所に私たちは住ま
れていました。そこには半年くらいいま
した。収容所の西と東に見張 台が建っ
ており、その上に警戒兵が立って見張り
をしています。マンドリンと呼ばれる鉄
砲を持っているわけで 収容所の範囲
外に一歩でも足を踏み入れたら、撃って
もいいという指示を受けているのです。
絶対に収容所から外へは行 な ので
す。
収容所の食事
収容所での労
働に対する報酬
は、飯盒(はん
ごう)の蓋すり
きりのスープで
す。それと小さ
な黒パンの
2
つ、朝昼は
これだけです。夜 豆の
煮付けや芋を炊いたも
の。そのようなものが私
たちの食事でした。
収容所での仕事
私が初めにやらされたのは木の伐採で
す。直径が
1
メートルもある大きな木を
二人で切 かなか切れ
30
度になると
事はさせられま
下
20
度までなら外で仕
た。寒さで思うように
に食べ物が食べ物なので力
それでも、仕事にはノルマがあ
た。
1
人
1
日伐採は何立方メートルと決
まっていて、そのノルマを達成でき
とその分食べ物が減ります。 「このまま
では皆死んでしまう。帰るまで死んだら
あかん」 と 思いで、自分 事だけ考え
るのではなく、協力することを皆で話し
合って決めました。
収容所の環境の変化
収容されてから
3
年くらい経ち、仕事
をノルマ以上やると、超えた分のお金を
くれるようになりました。そのお金を
使って、収容所内の販売所で物を買える
ようになり、 やく自由に食べ物を食
べられるようになりました。収容所の環
境が変わってきたのです。
帰国と偏見
太平洋戦争が終わった
5
年後の昭和
25
年の
4
月
17
日に、私は帰国しました。本
当に嬉しかったです。帰国するまで親が
一番悲しい思いをしていたと思います。
毎日が 「岸壁の母」
(
キーワード②)
とい
う歌のとおりの心境だったと思います。
シベリアに抑留された人は皆、相当苦
労しています。はやく帰りたい一念
す。いつ帰れるんだという……希望は帰
国することしかなかったのです。
皆で
―
希望は生きて帰る
共に支え合い協力し
生きる事は叶わなかった
終戦時に中国大陸の満州にいて、ソビエト連邦軍の
5
年間
シベリアでの労働を強いられた、シベリア抑留 (
キーワード①) の経験を持つ、
中村健二さんにお話を伺いました。
中村健二さん(五ケ庄。平成 30 年 5 月に逝去。享年 94 歳)
▲黒パン
◀
おにぎりとスープの夕食
(画像提供:舞鶴引揚資料館)
4