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西田光代さん(広野町)

 昭和 2 0 年 7 月 2 4 日、宇治町で起こった空襲で、子どもを含む 7 人

が亡くなりました。その子どもたちはまだ小学 3 年生と 5 年生でした。

 空襲で兄 2 人を亡くした西田清一さんの三女、西田光代さんが伝え

聞いている当時の記憶をお話しいただきました。

西田清一さん(三男。西田光代さんの父)が

生前に調べ残した爆弾投下時の様子

西田清一さんたちが当時

住んでいた宇治町の自宅

前(撮影は終戦後すぐ)

7月

24

日。毎年、この日が近づくと

落ち着かなくなります。

『宇治市史

第4巻』 ――数年前、父

からこの本を見せられました。全6

巻、別冊年表1冊か なる 『宇治市史』

の4巻だけを死ぬまでずっと、父は自

室に置いていました。昭和

20

年に入っ

てからの宇治近辺の空襲被害のみが

8

日分、

10

件書かれています。

宇治町の民家横に落ちた爆弾で、死

んだのは小学生の少年2人です。おそ

らく一人は即死。もう一人は2時間後

に死亡。2人 私の父の兄で、当時小

学3年生と小学5年生でした。

近所の人に「飛行機やで」と言われ

て、外に出たとか、おのずから飛行機

を追いかけたとか、話す人によって、

違いはありますが、B

29

を追いかけた

のは事実のようです。粟村鉱業所に落

とすはずの爆弾がそれ とも聞きまし

た。

父の話では、小学1年生だった父は

2人の兄の後を追いかけたのだが、追

いつくことが出

さなケガで済んだそ

さなキズがあるのを、

せてもらったことがありま

私が小学2年生のよく晴れた夏

日、祖母の家で冷えた番茶を飲ん

ると、

祖母に 「今日は何の日か知って

るか?」 と聞かれ、 「知らん」 と答える

と、 「あんたの伯父さんの死んだ日や

で」 と教えられました。

祖母は、爆弾が落ちてすぐにうちを

飛び出して、子どもの元に駆け いっ

たそうです。子どもを抱き上げて、B

29

に向かい、 「もっと落とせぇ!みん

な殺せぇ!」 とずっと泣き叫んでいた、

と抑揚のない口調でたんたんと話して

くれました。

父が三男であることも お兄さんが

戦争で亡くなったことも知っていまし

た。ただ漠然と、兵隊さんとして死ん

だと思っていただけでしたが、考え

みれば、そんな年じゃない。

道徳の授業で、戦争に行った息子の

代わりに桐の木を植える母親の話を読

んだことがあります 祖母のうちにも

桐らしい木があり、それが子どもの代

わりなのかなぁと、その時思ったこと

を覚えています。

子どものうちは、 「へぇ、そうだっ

たんだ」 ぐらいにし 思いませんでし

たが、大人になっ からは、あの時、

父を気遣ってく

か、と考えるように

た6才の少年が、2人

ところを目の当たりにする

には想像すらつきません。

その後の

60

年余、父はどんな気持ち

で生きてきたのだろう。一切の泣き言

は言わない人だっ ので、私にはわか

りません。

7月

24

日が近づくと落ち着かなくな

る気持ち。この気持ちこそが私にとっ

て、経験のない戦争の記憶なので 。

これからも夏が来るたびに落ち着か

ない日々を過ごすと思います。そして

これは、生涯持ち続け ければいけな

い記憶 のでしょう。

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