宇治らしさを紐解く

室町時代〜江戸時代

日本一と称えられた
お茶の街の誕生

室町時代になると、鎌倉時代に伝わった茶の栽培が本格化。将軍や諸大名の保護を受け、宇治茶の名声は徐々に高まっていきました。

室町時代の終わりごろには「応仁の乱」や「山城の国一揆」、「槙島城の戦い」など、多くの戦の舞台になります。その後、豊臣秀吉は、宇治橋南側に広がっていた巨椋池おぐらいけに太閤堤を築き、その上に新たな街道を整備しました。これによって、宇治の持つ交通の要衝という役割は変化していきますが、江戸時代には、幕府から特権を与えられた御茶師の屋敷が、現在の宇治橋通りに立ち並ぶようになり、毎年初夏には江戸と宇治を御茶壷が往来しました。今も中宇治地域には、当時を思わせる街並みが残されています。

さらに宇治に建立された黄檗山おうばくさん萬福寺の僧・隠元によって茶葉を急須で煎じて飲む喫茶方法が持ち込まれました。その後、現在と同じお茶を緑色に仕上げる「宇治製法」が確立すると、江戸に持ち帰った商人たちによって宇治茶は一大ブームとなります。

また宇治川や平等院といった景勝地は、和歌や俳句、絵画にも多く取り上げられ、全国から多くの人々が訪れるようになりました。

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