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当日の現地説明会の様子
浄妙寺跡発掘調査説明会 当日資料
木幡は、藤原道長や頼通を含む藤原氏の埋葬の地でした。
浄妙寺は、藤原道長が寛弘2年(1005)に藤原氏の菩提を弔うために建立した寺です。
寺地の選定には陰陽師の安倍晴明などがあたり、川の北方にある平地に定められました。
建築工事には道長は頻繁に木幡に足を運んでいます。
また造仏には康尚が、扁額と鐘銘の書は藤原行成と当時の第一の人物が担っており、道長の建立に対する意欲が並みでなかったことがわかります。
平安時代においては、浄妙寺は平等院とともに摂関家の重要寺院として位置づけられていましたが、鎌倉時代に入ると寺の別当職が聖護院宮家に移り、徐々に衰退していきます。そして室町時代の寛正3年(1462)一揆により放火され焼亡してしまいます。
浄妙寺推定復元図
絵図に見る築地塀
廃絶した浄妙寺は、江戸時代には門跡などの伝承が残っていたようですが、その後その所在は分からなくなっていました。
しかし現在の木幡小学校の東にある墓地が、「ジョウメンジ墓」と通称されていたことなどから、現在の木幡小学校付近に浄妙寺があったものと推測されていました。
昭和41年に、木幡小学校の建設が決まったことを受けて、昭和42年に発掘調査を実施したところ、浄妙寺の本堂である法華三昧堂の遺構が発見され、浄妙寺の位置が明らかになりました。
そして重要遺構の発見を受けて、木幡小学校は校舎の位置を変更して建築されました。
その後、平成2年に小学校の校庭改修工事に伴い、法華三昧堂の正確な位置と埋没深度を確認するための調査を実施し、法華三昧堂の全容と多宝塔と考えられる遺構を確認しました。
平成15年度から17年度にかけては、浄妙寺の史跡指定に向けた範囲確認調査を実施し、文献に書かれている川の跡や、北限が木幡小学校の敷地よりさらに北に広がることなどを確認しました。
今回の調査では、旧堂の川流路と考えられる河川堆積、築地(ついぢ)跡、ピットなどを検出しています。
旧堂の川流路は、調査区の南東隅で検出しています。
同様の河川堆積は、調査区の東にある仮設校舎の地点でも検出しており、校舎の北側を蛇行しながら流れていたことが明らかになりました。
築地跡は、旧堂の川流路の約6m北側で検出しました。
築地は東西方向に伸びており、幅1.2mから2mの2本の側溝に挟まれた幅約3.5mの部分が基礎となります。
この基礎の中央には5.9m間隔で、直径約30~40センチメートルの2本の柱穴が1.5mの間隔で掘られています。
この柱穴が築地の仕上げの柱と考えられ、基底で幅1.5mの築地塀があったものと考えられます。
築地側溝からは、瓦や土器類が出土していますが、その量は少なく、瓦葺の屋根ではなく板などを使用していたものと考えられます。
また、調査区の西寄りで側溝の途切れる個所があり、この部分に簡易な門があった可能性があります。
今回の調査では、浄妙寺の南限を示す築地塀跡を確認しました。
これまで、浄妙寺の南限については、文献の記述から川の跡をもって南限としており、それに伴う施設は確認していませんでした。
今回の調査によって、川の北側には築地塀が備わっていることが明らかになり、おそらく調査地の東側には藤原行成が書いた扁額のかかる門があったものと考えられます。
今回の調査は、浄妙寺の具体的な姿を推測する上で、重要な成果と言えるでしょう。
本年度第1調査区 発掘遺構平面概略図