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宇治市街遺跡発掘調査説明会を開催しました

印刷ページ表示 更新日:2010年4月17日更新 <外部リンク>
  • 開催日時 : 平成22年4月17日 午後1時~3時
  • 場所 : JR宇治駅北側すぐ
  • 内容 : 平安時代後期の貴族の邸宅跡および庭園跡が発掘されました。
  • 来場者数 : 約150人

当日の現地説明会の様子の画像
当日の現地説明会の様子

宇治市街遺跡発掘調査説明会 当日資料

宇治市街遺跡 現地説明会資料[PDFファイル/948KB]

宇治市街遺跡発掘調査の概要

  • 調査場所 : 宇治市宇治戸ノ内22-1他
  • 発掘理由 : 開発に伴う事前調査
  • 調査期間 : 平成22年3月18日 ~ 平成22年4月16日まで
  • 発掘面積 : 約280平方メートル
  • 検出遺構 : 平安時代の掘立柱建物・井戸・池・溝など約80か所
  • 出土遺物 : 平安後期の土器(かわらけ)・中国製の白磁片・古瓦など整理箱10箱

宇治市街遺跡について

 宇治市街遺跡は、現在のいわゆる中宇治一帯に埋蔵される、古墳時代から江戸時代に至る集落遺跡で、いわば宇治の歴史的な軌跡が遺跡化したものです。

遺跡の範囲は宇治川をはさんで東西に1500m、南北に500m、面積約54万平方メートルの 広大な中世都市遺跡です。

開発にともなって広狭さまざまですが、今まで約20回の発掘が実施されています。

この中で、市街地に残る碁盤目状町割(ごばんめじょうまちわり)は平安後期の都市計画の名残りであることが判明し、また平安中期から後期にかけての貴族たちの邸宅に造成されていた庭園跡が3か所で見つかっています。

当時の記録には、平等院の西側に藤原頼通(ふじわらのよりみち)をはじめ藤原一門の邸宅が建てられていたことが記され、都市的な景観が宇治に広がっていたことが分かります。

発掘されたこれらの遺跡が、文献が伝える誰の邸宅庭園かは判明していませんが、平安後期の宇治には、小石を敷き詰めた優美な洲浜(すはま)園池を配した王朝美あふれる邸宅が建ち並んでいたことがわかります。

この平安期に成立した都市が、現在の宇治の原点となりました。

調査の概要

 今回の調査地はJR宇治駅北側で、開発に伴う事前調査で発掘を行いました。

発掘では30センチメートルから80センチメートル程度の土砂を除去すると、平安時代の地表面が確認でき、当時の柱跡、溝跡、庭園跡、井戸跡などが見つかりました。

かつてあった工場によって部分的に削られはしていましたが、他の時代の重なりは少なく、平安時代後期の貴族邸宅の一部が明瞭に発見されました。

邸宅遺跡

 発掘で見つかった遺跡は次の四つの要素から成り立っており、出土した土器の形から平安時代後期(11世紀中葉から12世紀中葉)の貴族邸宅の一部と判断できます。

  • 池(園地) : 調査地北半で検出、南北10m以上、東西7m以上、深さ0.5m、小石敷き池中に不定形の島(東西3m以上、南北5m以上)を掘り残す。
  • 池に注ぐ水路(遣水(やりみず)) : 調査地中央で検出、幅約1m、長さ13m以上、深さ10センチメートル。
  • 細長い建物跡(廊(ろう)) : 調査地東半で検出、南北棟1間×4間以上(2.1×8.5m以上)。
  • 西に広がる広場(庭) : 調査地西半で検出、南北12m以上、東西5m以上、建物部分より5センチメートルほど低い。他の柱跡などがなく庭と判断できます。

 これら以外に同時期と思われる井戸跡が南端、溝跡が東端で見つかっています。

まとめ

 今回の発掘調査の成果をまとめると以下のようになります。

  1.  今回見つかった遺跡の要素は、平安時代に成立した貴族の邸宅である寝殿造(しんでんづくり)のあり方にとてもよく合致します。
    絵巻にも見るように、寝殿造は中心建物である寝殿の両側から対屋(たいや)や廊(ろう)を出し、その内側に広い庭と園地を置き、池への導水として遣水(やりみず)を廊にそわせて流しています。
    今回の遺跡では調査面積の関係で中心建物を発見していませんが、正確に南北に建てられた廊、溝の配置の仕方、庭の存在、そしてなにより小石敷き洲浜を備え、島を持つ園池の存在は、この遺跡が寝殿造とその庭園の一部であることを明確に示しており、都を離れて建てられた別業(べつぎょう)邸宅が平安京の寝殿造邸宅と類似構造を採用していたことがわかりました。
  2.  平安京内の寝殿造とその庭園は、都が南を正面とすることから寝殿の南に庭や池を置くのが基本です。
    しかしこの遺跡はその全く逆に北に庭と池を置いています。
    これは宇治が別業であり平安京の規範から自由であると伴に、宇治が北下がりの地形で、北には巨椋池や遠く比叡山や愛宕山を望む雄大な景観が広がるため、庭園の景観美を優先した結果と考えられます。
  3.  宇治の別業邸宅は古くは源(みなもとの)融(とおる)の邸宅などがありますが、10世紀末に藤原道長が平等院前身となる邸宅を設けて以来、藤原氏一門が多くの邸宅を建てるようになります。
    邸宅の名も宇治殿、池殿、小川殿、小松殿、西殿、泉殿などを記録から知ることができます。
    今回の邸宅がこれらのどれに当たるかはわかりませんが、いずれにしろ宇治には、予想以上に広い範囲で多くの貴族の別業邸宅が建てられていたことを証明する発見になりました。

まとめの画像
藤原道長の邸宅の東三条殿想像イラスト
(寝殿造邸宅の典型といわれる)

発掘遺構平面概略図の画像
発掘遺構平面概略図

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