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平成25年7月13日 現地説明会の様子
浄妙寺跡発掘調査説明会 当日資料
木幡は、藤原道長や頼通を含む藤原氏の埋葬の地でした。これらの墓は、現在宇治陵として宮内庁が管理しています。
浄妙寺は、藤原道長が寛弘2年(1005)に藤原氏の菩提を弔うために建立した寺です。
寺地の選定には陰陽師の安倍晴明などがあたり、川の北方にある平地に定められました。
建築工事には道長は頻繁に木幡に足を運んでいます。
また造仏には康尚が、扁額と鐘銘の書は藤原行成と当時の第一の人物が担っており、道長の建立に対する意欲が並みでなかったことがわかります。
平安時代においては、浄妙寺は平等院とともに摂関家の重要寺院として位置づけられていましたが、鎌倉時代に入ると寺の別当職が聖護院宮家に移り、徐々に衰退していきます。そして室町時代の寛正3年(1462)一揆により放火され焼亡してしまいます。
浄妙寺推定復元図
絵図に見る築地塀
廃絶した浄妙寺は、江戸時代には門跡などの伝承が残っていたようですが、その後その所在は分からなくなっていました。
しかし現在の木幡小学校の東にある墓地が、「ジョウメンジ墓」と通称されていたことなどから、現在の木幡小学校付近に浄妙寺があったものと推測されていました。
昭和41年に、木幡小学校の建設が決まったことを受けて、昭和42年に発掘調査を実施したところ、浄妙寺の本堂である法華三昧堂の遺構が発見され、浄妙寺の位置が明らかになりました。
そして重要遺構の発見を受けて、木幡小学校は校舎の位置を変更して建築されました。
その後、平成2年に小学校の校庭改修工事に伴い、法華三昧堂の正確な位置と埋没深度を確認するための調査を実施し、法華三昧堂の全容と多宝塔と考えられる遺構を確認しました。
平成15年度から17年度にかけては、浄妙寺の史跡指定に向けた範囲確認調査を実施し、文献に書かれている川の跡や、北限が木幡小学校の敷地よりさらに北に広がることなどを確認しました。また、平成21年度には、木幡小学校の校舎増築に係る調査を実施し、寺域の南限を示す築地跡を確認しました。
調査は、新しい園舎の建築する地点に2か所のトレンチを設定して実施しました。
調査地の西にある道路は三十番神街道と呼ばれ、宇治市史では中世以降の道路とされていますが、浄妙寺の墓参記事には「南辻」などの表現があることや、浄妙寺に西門があったことなどから、浄妙寺の西側には道路があったことがわかります。
このことから今回の調査では、当初寺域の西限を区切る築地跡や門などの遺構の存在が予想されました。
調査の結果、西にある1トレンチでは築地跡は検出しませんでしたが、幅2~3mの南北方向に並ぶ2本の溝を検出しました。
溝と溝の間は約5mの空間がありますが、溝の位置よりやや東側には一対のピットがあります。
北側のピットには石が据えられており、建物の礎石であることがわかり、門の跡と考えられます。これらの遺構の配置から、2本の溝は浄妙寺の西限を区画する溝と考えられています。
東側の2トレンチでは、整地層や土杭・ピット等を検出しており、瓦や緑柚陶器、土師器等が出土しています。
今回の調査では、浄妙寺の西限を示す区画溝を確認しました。
平成21年度の調査によって浄妙寺の南限が明らかになったのについで西限が明らかになり、浄妙寺の範囲が具体的に明らかになってきました。今回の調査は、浄妙寺の具体的な姿を推測する上で、重要な成果と言えるでしょう。