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宇治市のあゆみ

印刷ページ表示 更新日:2019年11月5日更新 <外部リンク>

宇治橋からの風景画像
 宇治は、京都と奈良および東国を結ぶ主要道が通過し、また急流の宇治川に宇治橋が架けられていたことにより、古くから交通の要衝として開けてきました。

 また、平安時代には摂関政治の成立にともない藤原氏の荘園、別業地となりました。
その遺構の一つである平等院鳳凰堂は、藤原時代を代表する建築物として今も全容をとどめています。

 国文学が隆盛した時代には、源氏物語の宇治十帖をはじめ、宇治を舞台にした数々の文学・詩歌も生まれました。

 貴族社会が次第に衰え、武家社会がぼっ興した時代には、宇治川先陣争いで有名な宇治川の合戦をはじめとした数多くの戦いがこの地で起こりました。

 また室町時代以降、宇治において重要な役割をはたしてきた茶業は、宇治茶の名声とともに繁栄し、江戸時代においては茶の総支配が代官を兼ね、幕府へ献上する茶は茶壺道中と称し、行列を整え江戸へ向かいました。
沿道の住民は大名行列に接すると同様にこれを送迎したといいます。

 明治元年に京都府が置かれ、その後いくたびかの行政区画の変遷を経て、昭和26年3月1日に市制を施行し、人口約3万8千人の宇治市が誕生しました。

 以来宇治市は順調な発展を続け、昭和30年代後半から京阪神の住宅都市として脚光を浴び、市内各地での宅地造成と著しい人口増加がはじまり、昭和54年8月には15万人を、平成10年9月には19万人を超えるにいたりました。市では現在、これまでの成果を引き継ぎながら、市民参画や市民協働をより一層進め、個性あるまちづくりを図る施策・事業展開に取り組んでおり、南山城の中核をなす都市として今後一層の飛躍発展をめざしています。