ブックタイトル市政だより令和2年(2020年)8月1日号

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概要

市政だより令和2年(2020年)8月1日号

実家で寝ている途中に起こされて庭に出で、私たちは先に向かいました。母親の人に、母親の実家に行くように言ったの思ったのか、私と3歳上の姉と母親の3炎上する富山市街た教育で頭に染みついた考えが消されてたことで、国民学校4年生まで受けていした。戦争が終わり、新しい学校に入っ戦い!」ということが、染みついていま市公式YouTubeちはや茶んねる「戦争体験アーカイブ」市平和都市推進協議会では、戦争体験者の当時の記憶・証言を映像化する事業に取り組んでいます。山崎彰さんのお話等を視聴出来ます。宇治市内容のビラを見て、父親は「危ない」とえているくらい、頭の中にまで「正義の機が落とした「今度攻撃する」といった軍歌を習いました。いまだにいくつも覚空襲の2、3日前にアメリカ軍の飛行戦争中は、教科書でも音楽の時間でも街Bを焼29、き尽70機くがし富ま山し市た上。空に現れ、富山市たちなのか」と思いました。る」と思っていたのに、「こんなにいい人昭和20年8月、アメリカ軍の爆撃機、戦争中は、「アメリカ兵が来たら殺されもを見ると、飴などをくれるんですよね。戦争体験アーカイブ富山大空襲プに乗ってあちこち行くのですが、子どさんにお話を伺いました。で全員が亡くなってしまいました。にもやってきました。アメリカ兵はジー太平洋戦争を富山市で経験した、山崎「蒸し焼き」になってしまい、防空壕の中その後、進駐軍(アメリカ軍)が富山周囲が全部火事になったので、いわゆるは分かりました。富山市街が真っ赤だったとされない限りは絶対大丈夫なのですが、ただ、「戦争が終わった」ということだけ庭に出てみると寺の防空壕は屋根つきで、直接爆弾を落されたのかよく分からなかったのですが、に止まり、死体を荷台に乗せていました。ありました。独特な話し方なので何を話ラックが1台やってきて、向かいの寺の前と、天皇陛下のお言葉である玉音放送がやまざき山あきら崎彰さん(明星町)10歳の時に富山大空襲を経験お墓だけが残っていました。そのうちト「重大発表がある。全国民聞くように」分の家の前まで行ってみると、石の塀と終戦、その後こちに黒い死体が転がっていました。自富山市街に入ると、家は全て燃え、あちやっと一息つくことが出来ました。朝になり、自分の家に向かいました。れた上市町に行き、そこで暮らし始めて、た。方鉄道に乗って、富山市からかなり離るべきじゃないと思います。あることを確認してほっとし、喜びまし家が焼けてしまった私たちは、富山地牲を払うだけです。戦争なんか絶対にすいる親戚の家に集まり、みんなが無事でいち早く逃げました。その後、私たちの家に残っていたのですが、空襲が始まり、上の兄と9歳上の姉と父親は自分たちのかって朝まで熱さをしのぎました。6歳上:空襲後の市電通り下:現在の同じ場所てただ、人の命と物を失い、お互いに犠たらどちらも傷つくわけです。戦争なん解決することが一番大事です。戦争をしが違っても何かあれば話し合いで物事を世界全体が、同じ人類として国や言葉親戚の家に行き、前を流れていた川に浸この様子だと実家も危なかったので、平和への願いました。考えられるようになったと思います。てみると、富山市街が真っ赤になっていいき、戦争に偏らない、まともなことを7