ブックタイトル市政だより令和2年(2020年)8月1日号

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概要

市政だより令和2年(2020年)8月1日号

戦後、ある裁判官が餓死するという事件が起こりました。当時、配給以外の手段で食糧を入手することは「ヤミ」と呼ばれ、違法とされ、その法を守り抜いた結果でした。食糧難はそれほど深刻でした。B29による爆撃私が当時住んでいた姫路には「川西航空機製作所」があり、戦闘機を作っていました。そこから10キロメートルほど離れた所に私の自宅はありました。昭和20年6月22日午前9時50分からおよそ1時間、B29による激しい爆撃があり、防空壕に逃げ込みましたが、爆撃の音がドンドンと大地震のような地響きを立てていたのを覚えています。その時の死者は341人、被災は1万220人と記録されています。その後、7月3日には姫路市街地が全焼する大空襲がありました。ケン兄さん私が一番懐かしく思うのは、母の弟で、が多く、私はよく聞き取れませんでした。ある人が、数学の教師をしていた父に向って、「先生、いったいどうなったんですか」と聞き、父が一言、「戦争に…負けました」と答えました。誰かが、「先生、そんなこと言われよったら、『非国民』やいうて『特高』に引っ張られまっせ」と言いました。私は「非国民」や「特高」という言葉を聞き、父が逮捕されるかもしれないと思い、体の震えが止まりませんでした。戦中、学校でヒマの種子が配られました。ヒマの種子にはヒマシ油が含まれ、それを子どもに大量に栽培させ、油を採り、航空機用エンジンの潤滑油にしようという国を挙げての政策でした。放送の後、私は庭へ出て、父の背よりも高くなったヒマを見ました。父が私の肩に手を置いて、「このヒマも、お役に立たな当時京都の大学生だった「ケン兄さん」のことです。時々珍しい土産を持って姫路の私たちの家を訪ねてきました。私と弟、妹に絵本を読んだり、ハーモニカを吹いたり、楽しいひとときを過ごしました。彼が最後に来たのは、姫路城の桜が満開の頃で、いつものように楽しい時間を過ごした翌日、見送りに行きました。桜吹雪の中、彼は何度も振り返り、手を挙げて去っていきました。それから3カ月後、終戦の年の7月末に、突然彼の訃報が届きました。学徒出陣し、特攻隊員として戦死したのです。悲しい出来事昭和18年頃でしょうか、近所の空き地が整理され、「殉じゅんこくえいれいのひ国英霊之碑」が建てられました。ある日、通りかかると、白髪の上品な婦人が、黒い紋付を着て、その碑の前にひざまずいて拝んでいる姿を見ました。気になり毎日のように碑のある道を通ると、必ずその婦人の姿がありました。組長さんに尋ねると、「早くに夫を亡くし、女手一つで育てられた一人息子が、先般戦死した」ということでした。そして、ある霜の降りた寒い朝、その婦人は碑の前で冷たくなっていました。いかに息子のことを大事に想っていたかを身に染みて感じ、本当に悲しい出来事でした。終戦の日8月15日、「正午に重大なラジオ放送があるので、全国民必ず聞くように」という伝達がありました。床の間にラジオが置かれ、近所の人が大勢来て、姿勢を正して座っていました。「玉ぎょくおん音放送」が流れ、古いラジオは雑音かったね」と言いました。もう秋風が立ち始めていました。結局、日本全国で栽培されたヒマが戦争に使用されることはなく、もし使用出来たとしても、どれほどの役に立ったのかは今でも分かりません。世界が一致団結するチャンス戦争が終わって75年が経っても、いまだに忘れられない悲しい光景は、走馬灯のように私の頭を駆け巡ります。私たちの子どもや孫の世代の人たちには、そんな辛い思いを決してしてほしくありません。現在、新型コロナウイルス感染症という世界共通の敵があり、世界が一致団結するチャンスかもしれません。この世から戦争がなくなり、世界中の人たちがみんな平和に暮らせますように、心から願っています。※挿絵(山本明子:文・藤井美佳:絵『アコの戦争』より)(画像提供:歴史資料館)語句説明特別高等警察「特高(とっこう)」と言われた。政治・思想・言論を取り締まるために設置された警察配給物資の供給を政府が一元的に行う制度B29アメリカのボーイング社製の長距離爆撃機。各都市の無差別爆撃や、広島・長崎への原爆投下の際に使用された。殉国英霊之碑戦死者を祀るために建てられた石碑玉音放送終戦時に放送された天皇の肉声。ヒマ別名トウゴマ。種子から取った油は下剤や機械油に用いられた。庭でヒマを見つめる私と父ハーモニカを吹くケン兄さん5