ブックタイトル市政だより令和元年(2019年)8月1日号

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概要

市政だより令和元年(2019年)8月1日号

工場の爆撃で友人が即死昭和18年3月に国民学校高等科を卒業後、4月に太秦の三菱重工の「養成工」に、志願し、試験に合格して入りました。工場では飛行機のエンジンを作っていました。昭和20年4月に工場は爆撃を受けて友人が即死しました。私はたまたま前日に実家に帰っていて無事でした。死んだ友人は、昼ご飯のために機械を止めて、食堂に行くまでの間にやられたと聞いています。工場に入り2年と4か月で終戦を迎えましたが、終戦を知った時は「やっぱりか」と思いました。工場に材料が入って来ないので仕事も出来ないし、工場は爆撃を受けてひどいことになっていましたしね。皆が同じ状況だったから我慢できたと思う寄宿舎では温かい食事が食べられたけど、ひどいものでした。豆かすなどが煮込まれたものを食べていました。麦や干しうどんはまだ良かったのですが、豆かすは一番まずかった。他に食べるものが何もなかったから辛抱するしかありませんでした。いつも腹が減っていましたが、皆が同じ状況だったから我慢出来たのだと思います。「もういっぺん行かなあかん」私にはひとまわり違う兄がいました。兄は、2回戦争に行きました。1回目の出兵は「日中戦争」でした。昭和13年9月に入隊しましたが、出兵の時、賑やかに送り出しました。中国の戦闘で右足に弾が貫通し、除隊して帰って来てくれました。中国から帰って来た兄に、親類の人は結婚を勧めるのですが、「もういっぺん行かなあかんかもしれん」と言って、結婚はしませんでした。兄のビルマでの戦死2回目は昭和18年12月に召集されて、兄はビルマへ出兵しました。見送りに京都駅まで行ったのが最後でした。昭和19年6月12日が兄の命日です。地域から3人ビルマへ出兵しましたが、皆同じ時期に亡くなりました。兄の死を伝える昭和21年3月に、役場の人が兄の戦死の書類を持って来ました。その時、姉2人と山で炭焼きの木を切っていたのですが、その時は、それはびっくりしました。兄は必ず帰って来ると思っていましたから。母にどう伝えるか子どもながらに心配し、姉と3人で相談しました。見せないわけにもいかず、何日も放っておくわけにもいかず、どうせ見せなあかんしと見せました。母は一言「やっぱりそうやったか…」と言いました。平和のためには戦争が終わり、父代わりの兄も戦死してしまって、まだ若かった私を近所の人が本当に助けてくれました。平和を続けていくには、やはりお互いが助け合っていくことが大事やと思います。そしたらまず、びっくりするようなことは起こらないかと思いますよ。岸本さんのお兄さんが中国へ出兵する直前の演習場で撮った写真三菱重工 養成工のクラスで撮影した記念写真岸きしもと本 清せいぞう三さん(西笠取)国民学校高等科を卒業後、終戦まで京都市内の軍用機のエンジン等を製造する軍需工場で養成工として勤務4