ブックタイトル市政だより令和元年(2019年)8月1日号

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概要

市政だより令和元年(2019年)8月1日号

B29が宇治の空をB29は多い時で20機以上の編隊を組んで宇治の空を飛んでいたと思います。当時は警戒警報のサイレンが鳴りっぱなしでした。現在の京都文教大学の敷地内に高射砲陣地がありました。大阪を空襲した帰りにB29が宇治の上を通るときは、ポンポンと高射砲を撃っている音が聞こえてきました。私が14歳になる年に、B29が高射砲の弾を受け、飛行機の胴体から翼がちぎれて伊勢田の方に落ちていくのを見ました。強烈な記憶として覚えています。他にも日国(日本国際航空工業)が爆撃されているのも見ました。大阪で空襲があると、宇治まで灰が飛んで来ました。空襲があった次の朝、京阪電車では、焼き出された人が着の身着のままで京都方面へ向かうのをよく見かけました。食糧不足昭和15年頃までは、キャラメルやチューイングガムなどのお菓子もありましたが、だんだん見かけなくなりました。戦時中は米が不足して、さつま芋などの代用食を食べていました。食べるものがなかったことが一番辛かった記憶です。それでも日本は勝つと思っていた陸軍も海軍も「日本は勝つ」とそんな宣伝ばかりしていました。「大本営発表」で、「敵の軍艦何隻轟ごうちん沈!我方の損害軽微なり」と。私も当時の日記に「今日は戦艦を何隻、空母を何隻沈めた!」とか書いていました。終戦を迎えた8月15日は夏休みで家にいました。終戦を知ったときの気持ちは、正直言うと、「やれやれ、やっと終わった。」というものだったと思います。今の子どもたちへ中学生の頃は、授業よりも畑仕事が優先され、工場などの空き地を見つけ開墾し、芋畑にしました。学校の運動場は半分芋畑でした。勉強したくても勉強する時間はあまりありませんでした。今の子どもたちに伝えることは、「勉強が出来ることはありがたいことなので、頑張って勉強してほしい。」ということです。勤労動員 戦時体制化、軍需産業などに国民を強制的に従事させた。太平洋戦争開戦後,労働力不足が一層深刻化し,学生・生徒などを動員した。国民学校 昭和16年に尋常小学校にかわるもの高等科 として国民学校が発足し、修業年限は、初等科6年と高等科2年の合わせて8年となった。語句説明日本レイヨン 日本レイヨン宇治工場(現ユニチカ)サッカリン 科学的に合成された人工甘味料。予科練 正式名称は「海軍飛行予科練習生」。海軍航空機への搭乗に必要な基礎訓練を受けるために選抜された少年航空兵のこと。高射砲陣地 高射砲(こうしゃほう)は、地上から航空機を攻撃するために作られた火砲。戦後の航空写真では現在京都文教大学の敷地に、高射砲陣地の跡があるのがわかる。B29アメリカのボーイング社製の長距離爆撃機。各都市の無差別爆撃や、広島・長崎への原爆投下の際に使用された。日本国際航空工業大久保村にあり、後の日産車体。主に練習機と輸送機を製作していた。大本営発表 戦争遂行に必要な国内外への宣伝報道の為設立された、大本営陸海軍報道部からの戦況報告。長距離爆撃機B29桂かつら 寿としかず一さん(宇治)太平洋戦争の終戦前年に国民学校初等科を卒業昭和19年平等院にて菟道国民学校初等科卒業を記念してサッカリン出典:国土地理院ウェブサイト(加工:宇治市)(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=35308)3