ブックタイトル市政だより令和元年(2019年)8月1日号

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概要

市政だより令和元年(2019年)8月1日号

私たちは忘れない平和特集ー子どもが見た戦争戦争は人の命を奪うだけでなく、日々の暮らしの中の幸せや豊かさも奪います。戦争を繰り返さないためには、戦争の悲惨さ、愚かさ、そして平和の大切さを次代に伝えることが、とても大切です。しかし、戦後74年が経ち、実際に戦地で戦ったなどの戦争体験を持つ人が少なくなっています。本特集では、子ども時代に宇治市で暮らす中で戦争を経験した人にお話を伺いました。勤労動員先で昭和19年10月の菟道国民学校高等科2年生(現在の中学校2年生)の時に、日本レイヨンへ動員されました。日本レイヨンでは「砂糖溶解所」というところに配属されました。当時各家庭では、本当の砂糖は全部軍隊に取られて、サッカリンという代用品を使っていましたが、溶解所では、山のように積まれた袋から、砂糖をスコップでタンクに入れて、溶解して飛行機の燃料を作っていました。昼ご飯は食堂で食べていましたが、それはまずいものでした。麦やとうもろこしの乾かしたもの、芋のつる、豆かす(大豆から油を絞った後の搾りかす)、雑炊みたいなものばかり食べていたように記憶しています。お腹がすいてすいて大変でした。少年航空兵に憧れて当時の日本は戦争一色でした。「早く兵隊になって、戦闘機に乗り、爆弾抱えて敵に体当たりする」、今では考えられないけれど、まだ14才だった私たちはそれに憧れていたのです。生まれてからずっと、「国民は国のために尽くす」と、「日本は絶対に戦争に負けない」と教えられていましたから。小さいころから男は兵隊に行くと言われて育ち、学校では少年航空兵の勇ましいポスターが貼ってあり、宣伝映画も見せられました。少年航空兵になることに憧れていた私は、親に黙って「予科練」に応募しました。試験を学校から5~6人ほど受けて、2人合格したうちの1人が私だったように記憶しています。先生に報告したらクラスのみんなから拍手で祝ってもらって、とても誇らしく嬉しかったのを覚えています。母に予科練の合格通知を見せたら、涙をぼろぼろとこぼしました。私は喜んでくれると思っていたので驚きました。後になって考えると、息子2人のうち兄がもう既に兵隊に行っていたので、「お前も兵隊に行くのか」、と胸にこみ上げたものがあったのだと思いました。しかし、結局入隊の通知は、終戦まで来ませんでした。絶対に戦争に負けないと教え込まれてB29はしょっちゅう飛んで来ました。晩に寝ていたら、すごい飛行音がしました。しばらくしたら「どどど~ん」と音がして、大阪の方の空が真っ赤になっていました。空襲は昭和20年くらいから多くなっていましたが、それでも終戦まで日本は勝つと思い込んでいました。今の子どもたちへ「戦争があかん」というのはわかるけれど、なんで「あかん」のかという理由を今の子どもはわかるのでしょうか。私も実際に戦地に行っていないので、なかなか実感として伝えるのが難しいのです。人は世界中どこで生まれてもみんな幸せになりたいものです。自分だけが幸せだったら良いというのではなく、みんなが幸せということでなくてはいけないと思います。今の子どもたちには、お互いに助け合って、たくさん勉強して、平和で安心して暮らせる社会を作ってほしいと願います。表紙の絵「兵隊送り」(服部正吉:著・山下真奈:絵『ふるさと白川の風景~私が子供だったころ~』より)(画像提供:歴史資料館)表紙の説明服はっとり部 正まさよし吉さん(白川)国民学校高等科2年生の時に日本レイヨンへ勤労動員昭和19年動員先の日本レイヨンにて2