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貴重な歴史的文化的遺産の保護と活用

[2015年7月21日]

豊かな歴史遺産の保全と活用

 山紫水明の風光にはぐくまれた宇治。数多くの遺跡が物語るように、この地における人びとの営みは古代にさかのぼります。宇治川に初めて橋がかけられたのは7世紀半ば、以来宇治は名所とともに交通の要衝としてしばしば歴史の表舞台に登場するのです。

 都が京都に遷されると、宇治は平安貴族の別業の地として発達し、やがて 業は寺へと改められます。唯一今日にその名残を伝えるものが、世界遺産に登録される平等院です。

 かつて離宮社と呼ばれた対岸の宇治・宇治上神社、宇治から南に分け入った白川の金色院なども藤原氏にゆかりのある社寺と伝えます。

 また、最古の長編小説「源氏物語」の最後を飾る宇治十帖は、この宇治が貴族の生活に深く結びついていたからにほかなりません。


宇治橋碑

(放生院・重要文化財)

 一方で、宇治といえば「お茶」の代名詞とされ、今日も 宇治茶は日本茶を代表する高級茶として広く認識されています。鎌倉時代、明恵上人(みょうえしょうにん)によってここに茶の種がもたらされたという伝承が語り継がれています。

 豊臣秀吉が伏見城築城に伴い、宇治川の治水のために築造した「太閤堤」が、ごく最近の発掘調査によって、その偉容の一部をあらわしました。近い将来、宇治の歴史の1ページがより鮮明によみがえることになることでしょう。

 今、私たちが眼にすることができる豊かな歴史遺産と深い歴史に育まれてきた文化はかけがえのないものです。

 みなさんからのご寄付により、先人が育んだ豊かな遺産を保全し、後世に伝えるとともに、これらを積極的に活用した街づくりをすすめて参りますので、全国の皆さんからの応援をお願いします。

平等院 <世界遺産>

 平安時代の後期、1052年に宇治関白藤原頼通(よりみち)が、父道長の別荘を寺院に改めたものです。「鳳凰堂(ほうおうどう)」は、その翌年に阿弥陀堂として建てられ、仏師定朝(じょうちょう)の作になる阿弥陀如来像が安置されている中堂と、左右の翼廊、背面の尾廊で成り立っています。大屋根には鳳凰が飾られ、内部は絢爛な宝相華文様や極彩色の扉絵で装飾されています。二重の天蓋や雲中供養菩薩も必見です。「鳳凰堂」の周囲には池を配した庭園(史跡・名勝)がありますが、創建当初は宇治川や、対岸の山並みを取り入れて、西方極楽浄土を現したものといわれ、各地の寺院造営に影響を与えました。2001年3月に平等院ミュージアム鳳翔館がオープンしました。

宇治上神社 <世界遺産>

 明治維新までは、「離宮上社」と呼ばれていました。祭神は応神天皇とその皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)および兄の仁徳天皇とされています。境内正面の拝殿は鎌倉初頭のもので、寝殿造りの様相を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。本殿は、平安時代後期に建てられた、現存するわが国最古の神社建築です。三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式の建物で、左右の社殿にある蟇股(かえるまた)も建築年代を示すものとして重要です。

太閤堤

 文禄三年(1594年)豊臣秀吉の伏見築城に伴い、宇治川の川筋付け替えに関連して築かれた宇治から向島までの「槇島堤」、向島から小倉駅までの「小倉堤」と、淀川右岸の淀堤など淀川水系に施された大土木工事の総称として太閤堤という用語が使われています。そして槇島堤は、宇治川左岸の現堤防内に埋没しています。護岸遺溝は、使われている石材や遺物から、太閤堤と一連のものであることは間違いなく、江戸時代後期の洪水で一気に埋まったため、当時の状態で発見できました。また治水技術が確立される以前のものであるために、護岸形状の違いや、築城技術の援用などさまざまな工夫がみられます。日本の大規模治水開始初期の姿を伝える遺跡と注目されています。

お問い合わせ

宇治市政策経営部 行政経営課

電話: 0774-21-1584 ファックス: 0774-20-8778

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