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宇治茶のあゆみ

[2010年3月19日]

お茶の木はもともと、中国の南部、雲南省のあたりがふるさとだといわれています。

 わが国のお茶に関して現在残っているもっとも古い記録は、奈良時代までさかのぼるといわれますが、本格的にお茶を飲む風習が伝わるのは鎌倉時代に宋から帰国した僧・栄西が日本に茶の種を持ち込んでからでした。

 そのお茶を宇治に伝えたのは、栄西から茶を譲り受けた京都栂尾高山寺の明恵という僧だと伝えられています。

黄檗山萬福寺の山門前には駒の蹄影の歌碑が建っていますが、この歌碑は、宇治の人々がお茶の種のまき方を知らずに困っていたところ、明恵が畑に馬で乗り入れ、「馬の蹄のあとに種をまけばよい」と教えたという言い伝えによるものです。

 こうして栂尾から、宇治に伝えられたお茶はやがて宇治茶として、全国に広く知られていきます。

 室町時代、将軍足利義満は後に「宇治七名園」と呼ばれるすぐれた茶園を宇治の地に作りました。

これらは「森、祝井、宇文字、川下、奥ノ山、朝日に続く琵琶とこそ知れ」と和歌にも詠まれるほどでしたが、今では宇治善法の「奥ノ山園」(宇治市の名木百選の一つ)を除き、ほとんどがなくなってしまいました。

 南北朝から室町時代にかけ、お茶を飲みあてて、その成績を競う「闘茶」というゲームが流行しました。

これは今も続いている「茶香服」のもとになりました。

といっても「茶香服」は玉露や煎茶を飲み比べるものですから、てん茶(抹茶)の産地を比べた「闘茶」とは違ったものだったと考えられます。

 江戸時代になると将軍が飲むお茶を宇治から江戸に運ぶ「お茶つぼ道中」がありました。

  ズイズイズッコロバシゴマミソズイ

  茶つぼに追われてドッピンシャン

  抜けたらドンドコショ

と、茶つぼ道中の様子は童謡にも歌われています。

沿道に住む人たちが、通り過ぎる行列にあわてふためく様子と、過ぎたあとのはやしたてる様子が良く分かります。

当時は大名行列でさえ道を譲らなければならなかったのです。

 江戸時代の中ごろに、宇治田原の湯屋谷の永谷宗円という人が宇治茶に変革をもたらしました。

これまでは、茶の芽を釜で炒って、ムシロの上で手足でもみ、日光で乾燥させていましたが、宗円はこの製法を改良し、火力で乾燥させながら手でもむ製茶法を考えたのです。

 新しい製法の煎茶は色や香り、味が良く江戸や各地で非常に評判が高く、大いにもてはやされました。

この新しい茶の製造方法は「手もみ製法」とよばれ、日本の緑茶技術の基礎となっています。

お問い合わせ

宇治市市民環境部 農林茶業課

電話: 0774-22-3141(代表) ファックス: 0774-20-8977

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